迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

生き様が迷子な人程“正義”を唱えたがる。

冷凍食品の毒物混入事件。どうも、賃金体系の変更が引き金になっている…という報道を見て、起こるべくして起きた事件だなと考えてしまう。てのも、年功序列方式だと、仕事を適度にサボってても、勤続年数で基本給が決まってるんで、高齢者厚遇の様に感じられるから、年齢や勤続年数を無視できる“実績重視”の形態に切り換えた…で、それに不満があるから、製品を購入する消費者を“人質”にしたと考えたら、やった事に関しては、あまりにも浅はかで愚かな行為だが、そこに至るまでの企業の“努力の方向性”が間違ってるから、結局、従業員にしろ消費者にしろ、多大な迷惑を被った訳である。当然だが、被疑者自身も、個人的な憤懣を企業に対してブチ撒ける為にやったのであれば、それによって余計な迷惑を受けた者の恨みを買う事になり、却ってマイナスになるだけ。本当に重要なのは、社会に不満があるのであれば、自らの意志で、世間から気違い呼ばわりされても大声で叫ぶ事と、それに似合うだけの行動を起こす事である。正直、自分の仕事場で自分の仕事を減らす様な行為をしたトコで、自分が損するだけで、何の意味もないのだが…

同じ事を言えば、某野党の討論のあり方についても、また然り。特に、議会運営に関して、自分達がやった事に対して“尻拭い”を、今の自公連立与党がやってるまでの話なのに、それに対して批判するのであれば、それ相応の仕事をすべきである…すなわち、批判する前に対案、あるいは代替案を示すべきであり、また、世間に対して自分達が、どう判断されたのか、その結果を素直に受け入れた上で発言すべきである。特にどことは言わんが、自分達の考えが世間から乖離してる事を自覚せずに、政府与党に対して“時代逆走だ”と批判する資格はない。まして、今の60歳代後半以前の連中は、学生時代に何をした?そのツケを払わされているのは、いうまでもなく、オイラ達40歳前半世代の面々だ。言い方が悪いが、親の世代がエエ加減だから、子供もそれを受け継いでしまう…学生運動をやってた連中が、政治の中枢にいる事自体、オイラからすれば胸糞が悪い。

民主主義とは、その責任は大人だろうが子供だろうが関係無く、国民全員に責任が及ぶ、究極の“連帯責任”によって運営される事を意味し、その進化の先に社会共産主義がある。つまり、良くも悪くも、国民全員が一丸にならなきゃどうにもならんのが、民主主義の本質であり、だからこそ、その決定権も国民一人ひとりの責任によって全員が有してる。で、よくある間違いを指摘すれば、それは共産圏国家の殆どが、民主主義に反して“絶対王政”的な独裁政治に陥った事である。例を挙げるまでもなく、それでも国民がそれを許す背景には、責任の重さに耐えられない事を自覚してるからこその判断である…つまり、国民全員が子供と一緒で、自分がやった事であっても、“誰かが庇ってくれる”という甘えから、責任の所在を最高権力者に委ね、その人の指示に従えば、とりあえず安泰である…という発想に至る訳であり、そこに逆らう、あるいは意見する事は、その“ぬるま湯的平和”を乱す反逆行為である…と見做されるから、自分の“本来のあり方”に迷い、今ある命を惜しむあまりに、責任の擦り付け合いに発展する訳である。言い方を変えれば、高齢者ドライバーが高速道路や一方通行の車道を逆走してても、“自分は正しい”という概念がなまじあるがために、道交法違反よりも“自分の事情”が優先になるのと同じである。(それで事故に巻き込まれたトラックドライバーが、危険運転過失で逮捕とかされたら、正直、洒落にならない。)

正直に言えば、世間一般の“正義”とは、どこまでいっても“利己主義”であって、お互いに“正義”を掲げている以上、意見が合わない事を理由に相手を“悪”と見做すのは、当然の話である。しかし、それを逆さまに考えた場合、自分が背負っている“責任”の多くが、実は世間一般的な“悪”であり、それを後生大事に抱えている事で、一種の“免罪符”になってるトコがある。それを批判してる人は、故に自分の“責任の重さ”を、余りにも軽く見てるトコがある。ぶっちゃけ論だが、アメリカの医療機関で治療を受けると、法外な“治療費”を請求される。しかし、それはアメリカの国民が、社会保障制度よりも税負担の軽減ばかりを求めた結果であり、これも民主主義を謳いながら、国民を軽視し続けた結果である。それを良しとしたのはいうまでもなく、国民自身であり、そこに責任を擦り付けてる市民団体であり、国家そのものである。それ故に日本や北欧の社会保障制度が羨ましい反面、その分の増税を嫌うから、TPP交渉において、生命保険市場の開放と同時に国ではなく金融系企業による保障制度へのシフトを呼びかける訳である。その図々しさを見抜いた上で、アセアン諸国が“話にならんわw”と言ってる訳であり、そこんトコをアメリカの企業や政府が理解できないから、いつまで経っても交渉が進まない訳である。これもまた、ひとつの“迷子な正義”の一例である。

真の正義とは、一切の悪を背負う事と引き換えに、未来を切り開く事である。言い方を変えれば、先の戦争において、日本だけでなく、戦争に参加した全ての国々が、自国の繁栄と世界平和を本気で願ったからこその衝突であり、そこに参加してないどころか、第三者のフリをして“敗北者いじめ”に加担してるバカな連中は、それが戦争の引き金を引いた要因である事を、歴史から何ひとつ学んでいない…そう、正しい歴史認識とは、正邪の判断材料ではなく、自分の“現状”を知る為の“地図の読み方”でしかない。即ち、その“結末”と引き換えに得た“未来”を、ただ謳歌するだけの生き方しかできない人程、頓珍漢な歴史認識しかできない訳であり、そして、その“認識”だけで正邪を決めつけてるから、話の辻褄が合わなくなるだけでなく、社会そのものが歪むのである。

自分の思想が間違っているのであれば、自分の後ろについて行く人はいない。だけど、それを“正義”としてついて行く者のがいる限り、その歪みに気付かなくなる。本当に歪みのない人とは、失敗や敗北を恐れない…そして、本当に多くの民衆を救う為に、自分の命を、常に抛っている。そう、頭を下げる行為とは、いつでも相手に“首を刎ねて良い”という意思表示であり、頭を下げた相手の首を刎ねた時点で、その“大罪”を背負う事を引き継いだ事になる。それ即ち“不軽菩薩の行”とは、どんな相手に対しても命を抛って、その反応を試した行為である。だから最初は“気持ち悪い”からと言って、多くの人々から迫害を受けた…何人たりとも、その行を代わりに引き受ける事はできない。だけど、多くの人々は、そこに気付いた…相手を敬うという事は、自分自身も尊ばれる事を意味する事だと。その真心が理解できない以上、金銭や地位、体裁に捉われ、生き様を迷う結果になる。今の世間が混迷する最大の原因は、結局、自分自身の“迷い”にある。その“答え”を導き出すヒントとして、先人達の哲学があり、そしてそこに至る為の宗教観がある。その“宗教”そのものが迷路になってるからこそ、余計に迷う事になる訳だが…自分の掲げる“正義”が本当に正しかったのであれば、それによって救われた人々が、その想いを引き継いで、実践していく。その積み重ねが、やがて社会を変革するうねりに変わる。今は力もなく、無視されててもいい…本当に変革を求める者が、その意志を継いで集い合えば、それが“宗教”になるから。