迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

宗教が忌み嫌われる理由…

本家…てか、ダイアリー側に移設した記事でも散々やった事なんでアレだが、日本に限らず、どこの世界でも宗教が叩かれる背景には、根幹的な問題がある。ひとつは、民族性の否定であり、もうひとつは、それ故の不信感である。ぶっちゃけ論で言えば、自分の身内“だけ”で作り上げた“完璧な世界観”を、他者から否定される事を恐れた結果、新興勢力…つまり異文化の否定をやってるからこそ、そうなる訳であり、また、“得体の知れない余所者”によって自分達の風習や世界観を壊される事を恐れるあまりに、仲間内だけで通用する事が,そのまま“常識”として概念的に固定される訳である。よって、他者を褒めるよりも貶す事で、自分の地位を守ろうとする事に専念した結果、最初はともかく、後々周囲からもドン引きを喰らうハメになる。

理念や思想が立派でも、そこに至る経緯を知ると、途端に信じられなくなるのは常である。というのも、理想と現実のギャップは、その格差が大きければ大きい程、その思想や理念についていけない者達が脱落するモノであり、そこを理解できるかどうかによって、宗教の価値が決まると言って良い。逆に、多くの宗教が引っ掛かるポイントとして、世間的な認知度と引き換えに、金銭や物品の授受が取り沙汰される様になる。もっと言えば、いわゆる“賞レース”において、その価値が本当にわかる人とそうじゃない人の決定的な違いは、その“賞金or賞品”の価値観のみで語るか否かである。今日のラジオで、とある落語家が文芸に対する自治体から賞を受けた際の取材で、いかにも自治体批判をする様なコメントを、新聞記者から求められたと話していた。彼の持論では、賞とはあくまで自分の芸事に対する評価であって、それによって生じるギャランティー(賞金)や授賞式の有無は別問題だという事に対し、報道陣は恐らく、その“態度”を批判して欲しかったのだろうと思ったからこそ、取材をしたのではと勘繰ったそうな。彼の意見に対し、オイラは激しく同意する。競馬でもそうだが、世界のホースマンが凱旋門賞を頂点に据える最大の理由は、凱旋門賞そのものが世界中から最も注目されるレースであって、しかも、そこでの評価が、欧州や北米での種牡馬,および繁殖牝馬としての価値として評価されるからこそ目指す訳であり、逆をいえば、いくらジャパンカップ有馬記念、春秋の天皇賞を制覇したとしても、同じ理屈で、アメリカのブリーダーズカップやドバイミーティング、香港国際競走シリーズ、オーストラリアのメルボルンカップ等を制したところで、その本意をわかっていなければ、それは何の価値もない戦績となる。

話を元に戻すと、実はコレこそが、宗教批判の大因であり、ひいては民族…否、異文化の批判でもある。現在、世界中で知られている宗教…キリスト教にしても、元々はユダヤ教から“異端”とされ追放された存在であり、イスラム教はそんなユダヤの民を“邪悪”と称して土地を奪った経緯がある。また、ヒンズー教は同じインド発祥の仏教を“釈尊の独り善がり”として見下してるトコがあり、同じ仏教であっても、日本とチベットとタイでは、その意義が完全に違ってしまっている…まして、日本の場合、仏教と言えどその大半は皇族との縁がないと批判される事が多く、創価学会が批判される最大の“理由”がそこにある。ま、この部分の話をするとまた脱線しかねないんで、ここでは割愛するが…要は、宗教が宗教であるが故に、他者に対する不信感が、いらん差別を生み出すともいえる訳であり、かと言って宗教が持つ道徳観や先人達を敬う礼節を批判するのであれば、現代社会が抱える闇が、何故これ程までに酷くなってしまったかを考えなくれはいけない。そう、信仰心という名の絆を嫌えば、人間(ヒト)は“人間”としての価値を見失い、野生動物以上に物欲や暴力によって、本能的な感情のみで生きていく事になる…それを良しとするかどうかは別として、宗教を忌み嫌う最大の原因は、その聖職者自身も“人間”であるという根幹に立ってモノを言わずに、単に過去の偉業や先人の業績を振りかざして威張るからである。これは為政者も同じである。そこに気付いて批判した凡人相手に、自分が恥を掻きたくないあまりにバカにするのであれば、自分だけじゃなく、自分が所属する組織までも嫌われて当然であろう。だからこそオイラは、自分に言い聞かせてる事がある…“襟を正してモノは言え”とは、自分だけじゃなく、自分につながらあらゆるモノを守る為にも、胆に銘じなくてはならない事なのです。