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迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

いじめは必ず、己の命を傷つける…

今日のTwitterでのやりとりについて…事の発端は、一部の学会員が公職選挙法に抵触する様な行為を行ったというつぶやきに対して、オイラが余計なツッコミをやったために、プチ炎上になった訳である。ま、“学会員あるなる”な話だが、公職選挙法で規制される行為は、あくまで選挙期間中…つまりは、告示(国政なら公示)日以降投票日までの行動が規制されるのであって、それ以前であれば、選管の“預かり知らず”な範囲であり、また、候補者、あるいは議員本人が、選挙区内での金銭授受に関して、たとえ親族の冠婚葬祭であっても、それを一切禁じてる訳である。そして、取沙汰されている政務活動費に関して言えば、公的イベントへの参加や、事業内容の視察等といった部分での必要経費で、かつ、私財では補えない部分を請求するのが本筋であって、私的なボランティア活動は、当然ながら、主催者の手弁当でやってる訳である。マスメディアが報じてる殆どの事案も、おそらく、役所的には“無問題”な事でも、情弱な一般人からすれば“けしからん事”にしか見えない…ま、無理ないねw 今までの政治家自身、生活費の殆どを、政務活動費として計上してるからね。でないと、確定申告での申請が大変だからねw(実体はともかく…)

閑話休題。で、他の学会員がやってる事を見ずに、選挙の話になると湧いて出る公選法的にグレーゾーンな話を、さも“学会員は汚い連中”というレッテル貼りをやりたい連中が、それを解説してるモンを“説教するキモいヤツw”とSNSで罵り、それを拡散して、賛同するモンを巻き込んで大騒ぎする訳である。でもさぁ…SNSも含めたインターネットって、結構“世界中”に自分の“恥部”を晒す行為なんだけど、その感覚が鈍化してると、最後、自分ではどうすることもできない状況になるのは、ニュースで何度も報じてるのに、まるで“自分は無関係”とでも言わんがばかりに、学会員を“公開処刑”してる姿、正直、滑稽ですよw むしろ、学会員を“叩くこと”しかできない自分を、世界中に晒してどうするよw もちろん、この点ではオイラも“同類”だし、他人の事は言えた義理ではない。だけど、自分自身を正当化するつもりも、ひねくれるつもりもない。ありのままの自分自身で勝負する上では、対等なる存在として相手を扱う事が肝心であって、ウエメセでも遜るも、関係ないこった。

第一、学会員の“HENTAI活動”を嬉々として取り上げ、罵詈雑言するのは別段、普段通りの話だから、別に気にする様な事でもないのに、それを取り上げている以上、それは学会に関して興味があったり、入信(入会)したいという深層心理の表れだと、学会員に“勘違い”されてもおかしくない行為である。もっと言えば、罵れば罵るほど、本当はこんな“バカな連中”が羨ましいから、だけど、仲間入りして他人から叩かれるのがイヤだから、どうしていいのかわからないという“心の迷い”に囚われているのである。オイラから言わせれば、そっちの方が“キモい”訳で、自分が見て“キモい”からといってバカにするのは、自分自身の“醜態”を見てるからこその話。この裏別館でも書き綴ったが、自分の視覚に映ってる“姿見”は、鏡を使わない限り、自分自身を見る事はできない。当然だが、その“深層心理”も、物理的に見る事はできない。しかし、自分自身の意識の中で、自分が見てる“姿見”を疑って見れば、自ずと己の“醜い心”を映し出す事になる。そのための“訓練”として、多くの仏教系僧侶は、本尊とされる曼陀羅や仏像に手を合わせ、声明(唱題)をあげ、何度もその身を投げ出す“おつとめ”をやる訳である。正直、他宗派の人間が見れば、この“修行”そのものが“HENTAI行為”に見える訳で、自分自身の行動を正当化しようとバカにする訳である。それ、目クソ鼻クそですわw

人を敬う…という行為は、正直、何を持って“敬意”とするかは、相手次第なトコがあるから難しい。まして、自分では気を利かせてやった行為が、相手が誤解して批判すれば、バカバカしくなるのは当たり前。そして、自分の思い通りにならない事を他人の所為にしてる人ほど、自分の“善意”が否定された事に関してムカつく訳である。説教されるのがイヤなら、自分が“完璧な人徳者”になることである。でもそれって、究極の“嫌われ者”になる覚悟がないとできない事であって、批判や中傷に対して、それを笑い飛ばせる程の懐の深さがないとできない事であり、また、それを恐れずに相手に話せる度胸がないとできない。当然だが、失敗も成功も、その結果を全て素直に受け止められる人でないと、どんなに自分で“完璧”だと思っても、他人から批判されるだけである。

むしろ、完璧な存在がいたら、多分、他の存在は“不要”でしょうから、自ずと“消滅”してるでしょうw なぜって?比較する必要もなければ、競い合う相手もいりませんし、それどころか、その存在を示す必然性もありませんからw だからこそ、他人の才能や意見に対して、ボロカスに言いまくる暇人が必要なのですw その僻み根性がある人と、正反対に存在する者が“セット”で、個性や才能などの部分は光が当たるのです。光があれば影があり、影が濃ければ光がまばゆい…この理がある以上、バカにする人も消えないでしょうし、それでムカつく人もいなくならないでしょうw 全ては自分が自分である以上は…

一切の事柄は、すべて“自分”に“原因”がある!!

アメリカ・ミズーリ州で起きた、黒人少年を射殺した白人警官に対して、不起訴処分という陪審結果に対する抗議。当事者遺族が不服をいうのはともかく、その周囲が騒ぐ“理由”はどこにある?事件の発端は、窃盗容疑で職質されるのを嫌った当事者が黒人であったこと、そしてその“行動”が過剰防衛を招いた可能性があること…ってことだが、アメリカに限らず、多民族国家であるが故の“民族差別”が根強く、特に白人迎合主義を“正義”とする概念がある以上、こういう問題は頻発するのが当たり前。同じことは、日本の嫌韓・嫌中思考にも繋がる部分であり、中国や韓国の抗日反日感情にもある部分。しかし、根幹的なことを除けば、その“理由”があんまりにも稚児こい訳であり、実態を考えた時、目の前の人間を信じられずに、上辺の情報に惑わされた心理故に、誤解や偏見を招く。この法則、西アフリカの“エボラパニック”と同じ理屈であり、実体験が乏しいが故に、パニックに陥る。

では、どうして“民族差別”がなくならないのか?その最大の理由が“変化”を嫌うあまりの“引きこもり”である。要するに、ニートと一緒で、現状維持を望むあまりに現実を見ず、実情に合わせた行動や提案があっても、自分の“幸福”に固執するあまりに、他者を邪険に思うようになる訳である。様々な風習、文化、生活様式が存在するのは、その地域に根ざした“進化の過程”という変遷がある。しかし、そこを無視して現状維持を訴えたトコで、何の意味もないのは言うまでもない。なぜなら、他者との交流があってこそ“歴史”は正しく刻まれていく訳であり、関係者“だけ”で技術開発ができるというモノではないし、様々な刺激があってこそ、芸術の幅は広がる訳であり、様々な意見や思考が寄り集まってこそ、社会全体が成り立っている。そこを無視して…否、排除して“純粋なモノ”など存在しない。競馬の話をするのはなんだが、競走馬としてメジャーなサラブレッドは、イギリス在来種の牝馬と純血アラブの三頭の牡馬(ダーレーアラビアンゴドルフィンアラビアンバイアリーターク)から成り立つ交雑品種であり、しかも近年はダーレー系の品種が一般的である。言い方を変えれば、より速く走ることを目的とした家畜馬として登場したのがサラブレッドであって、その基礎がタマタマ純血アラブだっただけの話であって、アラブよりも速い脚と耐久性がある品種の馬がいたら、それが今日の“サラブレッド”になっていたかもしれないってこと。ちなみに、“サラブレッド”とは、直訳すると“純血種”という意味になるが、実際は先ほど解説した通り。本当の意味での“純血”を求めるのであれば、それこそ、日本の場合だと野間馬やトカラ馬、木曽馬などの在来種を指すべきであって、もっと突き詰めれば、モンゴリアンポニー(蒙古馬)こそ、アジアの“純血種”とすべきである…もちろんこれは、あくまで極論だがw

人種差別で一番問題なのは、“古い因縁”を理由に罵る事が、いかに自分を“バカにしてる”行為なのかに気付かない事が、人種差別根絶を阻む最大要因であり、特に窃盗や傷害といった、実害を伴う犯罪は、どの人種、民族であっても、共通の“悪事”であるという認識が欠けてはいけないって事だ。ここを無視して“これだから黒人は…“とか、“だから黄色種は…“とか、“日本という国は…“とか、“大陸人の民度が…“とか言う筋合いはない。もっと言えば、自分自身が“その現場”にいた訳でもないのに、歴史上の話を持ち出して騒いだところで、目の前の人を傷つけたり、所有物を壊したりする権利はない。もしも、それを“理由”に襲撃していいというのであれば、必ずその“禍根”は、自分に降り掛からなくても、その周囲で影響を及ぼすことになる。これ、仏法における“四つの罰”の法則で、自分“だけでなら“別罰”で、自分がいる“組織全体”に及べば“総罰”となり、表面上に現れたら“顕罰”となり、後々に影響が及ぶのは“冥罰”となる。以前に解説した“One for all,All for one(一は全、全は一)”と同意の話で、たとえ自分とは“無関係”だと思われる事柄でも、それが総じて自分が所属する組織や故郷の“評価”につながる事がある。この自覚が欠如してる以上、必ず、歴史上における“同じ過ち”を繰り返す…それこそ、過去の出来事を先祖代々、後生大事に訴え続けること程バカバカしい話はない。今を生きる者たちを苦しめてる禍根を断ち切るためには、民族(組織)としての概念と、眼前の諸犯罪は“別問題”として片付けるべきであり、そのためにも、同じ場所の“住人”として、叱る事も、励ます事も、そして、支え合うことが肝となる。習慣や民族性の違いを認め合った上で、共通する事柄に関して、一切の贔屓や差別を許さない…それが、本来あるべき社会の姿なのです。肝心なのは、目の前の“相手”を侮蔑する権利は、何人たりとも有してはならない。そして、何人たりとも、いつ、自分が“原因”で他の誰かが傷つくかもしれないという“現実”から目を逸らしてはいけない。“他人”のせいにしていいのは、過去の歴史における粗相だけ。もしもそこで“因縁”をつけられたとしても、“当事者”でない者を責める筋合いはどこにもない。それでも他人をバカにするなら、それゆえに苦労するのは“誰”なのか…今一度、よく考えた方が良いでしょう。

 

さて、衆議院解散となったわけだが…2014

毎度ながら、不正な選挙だ国民無視だと騒いでるバカがウヨウヨ湧いてる様だが、今の政治がグダグダになったのは、言うまでもなく、国民全員の責任である。選挙に“行かない”事を“正義”とするなら、それは、自らの手で国を潰す事と同義である…言い方変えれば、政治を無視する“無血テロ”と一緒。しかし…いくらこれをやったトコで、当の政治家が公職選挙法を利用して、この“国民の行動”を“無視”してる以上、何の意味もない。政治家を懲らしめたいのであれば、選挙に“行かない”のではなく、選挙結果で“大波乱”を導く事にこそ意味がある。

今回の“突発的解散”は、表向きは“安定政権化のため”ではあるが、裏を返せば、連立相手の“公明党潰し”がチラ付いている…そう、維新の党が気付かないといけない事は、自分達自身の立場を、自民党が“利用”する可能性があるって事だ。小泉内閣以降、自民党公明党選挙協力を要請してる訳だが、本音を言えば、一刻も早く公明党…否、その支持母体である創価学会との縁を切り、昔の“一党独裁”の状態に戻したい議員が多い。ぶっちゃけ、昔の自民党に戻したいからこそ、こういう事をやってると、オイラは読んでいる訳である。投票率が低いのは、今の政治…というより、すべての政党や政治団体に、民衆のほとんどが“何も期待していない”からこその話。むしろ、選挙の度に“政権奪取”に燃えるのは、共産党ぐらいであるw なんでそうなるか?だって、共産主義こそ“正義”ですから…彼らにすればw

資本主義や拝金主義の限界は、資産を持つ人自身がその資金を“運用”することにばかり気を取られ、その“見返り”を求めすぎて、貧困層や僻み体質の他者に対する不信感から来る。貧困層もまた、自分の資産の無さを嘆くばかりで、必要以上に対価を求めすぎている事に気付いていない。どんなにお金があったとしても、物質的なモノ以外信用できない様では、誰も救われないし、どんなに大金が手に入っても、心が満たされる事はない。共産主義は、そこんトコの“解決策”の一つでしかない。みんな“平等・均一”という価値観を、物質的、あるいは具現的に限って実行しようとするから間違えるのであって、個々のレベルや事情に合わせた“解決策”を模索しない限り、必ず失敗する。中国の共産主義はある意味、少数民族を強引に抑え込む事で、主体となる民衆の不満を遠ざけ、“偽りの結束”によって、成り立っている部分が大きい。故に、かつて周恩来は、やがて来る“崩壊の時”を予見し、強引な政治手法に警鐘を鳴らした。しかし…かつての人民大革命による教育の歪みは、誰一人として修正されることなく今日まで及んでしまった。これが、日本近海での密漁尖閣諸島問題、さらにはベトナムフィリッピンでの領海問題などの“根元悪”である。ただし、だからと言って中国政府そのものが悪いというには、若干問題が違う。そう、中枢部と地方末端の組織で感覚がズレているからこそ起きる問題なのであり、中枢の幹部がどんなに部下の指導を行っても、喉元過ぎれば…ってヤツである。それだけ、民衆は自分“以外”の存在を見るコトができないくらいに疲弊してる事に気付かないほど、政治と民衆がかけ離れてしまっているのである。日本もまた然り。

閑話休題。要するに、選挙をせんでもいいのにやるのは、その裏にある“個人的危機感”がそうさせるのであり、また、マスメディアは、民衆が混乱する様をスクープせんがために、こういう事を風潮するトコがある。情報公開といっても、肝心なトコを公開しないのは、勘違いするバカが多いからこそであり、過度な不安を煽ってパニックになる事を防ぐためであり、また、しょうもない理由で振り回されている“真実”に、自分自身がやり場のない怒りで狂うのを避けるための“方便”である。時として、嘘を吐く事も必要である。だけど、それに対していちいち目くじら立てて怒鳴る様では大人気ない。維新の党の共同代表が、いわゆる“公明党憎し”で衆院選に出る様な事を言ってるが、府政・市政を投げ出して、国政選挙に出る様なエエ加減な人物が、今まで地方行政の長だった事の方が、大阪府民や大阪市民に対して失礼千万。それでも憎むなら憎めばいい…自分の責任でスクラムが崩れたのを、他人の所為にしてる様では、どんな最強のラグビークラブのトップスター選手であっても、故に新設の弱小チームにボロ負けする事になる…“One For All All For One(一つは全てに通じ、全ては一つのため)”とは、まさに、自分自身の愚かさが、せっかくの構想実現の“邪魔”になる事を意味するw 個別的な恨み言を政界に持ち込んでいる時点で、お察しである。だからこそ、敢えて言おう…代議士の名を騙るなら、万民の“奴隷”であれ。万民の“生贄”であれ。自分の使命に忠実になれない者は、“国首”の本意を知らずに玉座に座る“愚か者”である。さて、これから選挙活動のための準備をしますかw

メディアリテラシーと五重相対

上記のタイトルを見て、“なんじゃそら?”と思ったあーた。メディアリテラシーといっても、なんのこっちゃじゃ意味がないから、ぶっちゃけ論でいえば、情報の真贋を見極めるには、実は仏法上の“五重相対(ごじゅうのそうたい)”という概念をもって、それを上手く使い分けることによって、正確な情報判断を下せる…という事である。そう、日蓮が説きたる五重相対と“摂受・折伏時による”という御金言は、現在でいうトコのメディアリテラシーの“基本”とも言える格言といって良い訳であるw

では、五重相対で情報を見極めるコツとは何か?先に“五重相対”のおさらいをすれば、

1)内外相対(内道と外道)

2)大小相対(大乗教と小乗教)

3)権実相対(権教と実教)

4)本迹相対(本門と迹門)

5)種脱相対(脱益と下種益)

という概念で、コレをメディアリテラシーとして考える場合、

1)他者の感情と、当事者の感情

2)総合的な事と個別的な事

3)本音と建前

4)噂と真相

5)過去形と現在進行形

という概念に当てはまる。つまり、一つの情報に対して、アプローチの方法は様々でも、それが真実か否かは、自分で確信が持てるだけの見極めが必要となる。故に、自分自身に関心があることならとことんまで調べるが、それ以外の部分での情報に疎くなるのは当たり前だし、当事者がいないのに噂や“関係者”を名乗る“他人”の話を鵜呑みにする事自体、既に“情報弱者”ということを世間に露呈してるようなモンである。まして、過去にあった出来事ばかり話したとしても、現在進行形で推移してる事柄が抜けてたら、全く“デタラメ”な話になりかねない。これらを総合して、なおかつ、全く知識や理解度がない人に解説するのと、専門的な事に精通してる人に対しての解説方法を間違えたら、それこそエラい事になる。故に、子供でもわかる様な解説と、いわゆるヲタク系に通じる話では、相手のレベルを推し量るため必要な情報量も違ってくるし、うまく説明できたとしても、相手が勘違いする様な解説では、却って情報そのものが錯綜し、真実が“消える”ことになる。だから、マスメディアが流す情報を精査する時には、“自分”と“相手”がどういう関係で、何をもって“事実”として確認する術を持っているかを考え、できるだけ“証拠”となる文献やレポート、当事者への聞き取りなどを踏まえた上で判断する事が重要となる。その“基礎知識”を、鎌倉時代から指摘してるのが日蓮仏法の面白いトコなのです。まぁ、あの時代からメディアリテラシーの事を指摘して、しかも分析・解読を行ってたとは、全くもってファンキーな人ですw

だから、某タレントの嫁さんに関する“黒い噂”を信じるか否かは、自分が相手に対してどのポジションで見てるかを考え、判断した方が賢いでしょう。また、触れられたくない事柄をベラベラ喋る人達が、如何に“安請け合い”で情報を垂れ流してるのか…それをよく考えた上で、目の前の“相手”と接して、真贋を見極めた方がいいでしょう。鵜呑みにした“情報”に盲信的になって、相手を侮蔑し、自身を正当化しようとする程、カルトな思考に陥ってる事に気付かなくなるのです。

 

 

自分の耳でも潰したら?

最近、幼稚園・保育所をめぐるトラブルが絶えない。少子高齢化が叫ばれてる反面、子育てが“やり辛い”環境へ追いやってどうすんだという事案が度々報じられてるが、その殆どが“ガキうるせぇ”という、完全に理不尽な言い分である。確かに乳幼児の泣き叫ぶ声は、騒音として訴えても仕方ないトコはあるが、さりとて、それを親の責任にしたり、幼稚園・保育所を運営する学校法人や自治体に訴えを起こしてる時点で、すでに間違っている。なぜなら、乳幼児〜小学校低学年が撒き散らす“騒音”なんぞ、エエ歳こいたジジババのシュプレキコールや、若気の至りでブイブイ言わすバイクの爆音に比べりゃ、よっぽど“健全”であり、まともな事であり、そして“子供”だからこそ許される“特権”である。それを“煩い”だの“迷惑”だのと言ってる時点で、お察しである…以前、本館の方でも書いた事だが、宗教の“おつとめ”ひとつでもクレーム言ってる人ほど、実は単なる“かまってちゃん”であり、また、宗教に懐疑的な人ほど、実は宗教の“役割”そのものを誤解してる、トンでもない大馬鹿者である。なぜなら、宗教の“本文”は、人間らしく生きるための哲学であり、そして、それゆえの“理不尽”な事に対して寛容になれる様訓練する場だからであり、宗教団体が運営する学校法人の幼稚園・保育所では、入所園児に対して、様々なしきたりや礼節、マナーを教える場である。(その一環として、体験型の学習で茶道や習字をやるわけだが…)そういう“基礎中の基礎”も知らずに宗教団体や幼稚園・保育所を批判するのは、お門違いも甚だしいトコであり、そういう文句があるなら、限界集落に住むか、聴覚を失った方がマシである。(いや、マジで…)

ここからが本題。では、なんで待機児童問題があるのか?その最大の原因は、共働きが増えた事による、職場環境がそれに準じていない事と、もう一つ…そもそも“子育て”は家族間でやるもんだろ…という概念が、未だに日本人は抜けていないって事である。ひっくり返った言い方をすれば、親子3代以上同居状態の家庭で、しかも女性が常に家にいる事を条件とし、それができない家族のみが、行政が運営する幼稚園や保育所に子育てを手伝ってもらうのが、今でも“理想”なのである。これがそもそもの間違い。男女雇用機会均等法という法律をもって、職場におけるジェンダーフリー(性差撤廃)が行われていても、そのための準備として、子育て世代の家庭に対し、一時保育を請け負う施設(託児所など)が整備されてナンボのハズが、コスト削減だの余剰施設の撤廃だのという名目で、何一つ実装されていない。それどころか、独女に対していわゆる“寿退社”を強要したり、既婚者に対して妊娠や出産を機に降格人事やセクハラ・マタハラまがいな行為が頻発すれば、誰が子育てするとでも?実はここが重要…未だに世の中の男性が“ガキ”すぎるから、こうなるんです!! もう一度言います…世の男衆の“精神年齢”が幼すぎんじゃい!!

閑話休題…つまり、ハナっから“女性が邪魔”と言わんばかりな職場環境で、それでも働かないと、家族を養えない家庭が増えているにも関わらず、そこんトコを見ずに行政がドタバタしたって意味がない。当然、すべての職種で子育てのための養育施設を設ける事は不可能だが、それを“理由”に女性を軽視しておきながら、専業主婦になれと言われても、世の女性がそれで納得する訳ですか?(ま、オイラの場合は、嫁いだ先が交通の便が悪い農家なんで、仕方なく“寿退社”しましたけどねw)更に、高齢者介護をせんにゃならん家族もいるのに、それすら“邪魔”というなら、高価でもいいから今すぐ、全自動ロボットを大量に導入して、人件費をカットすりゃいいでしょう…でもそれって、逆を言えば、収入源がない人達ができるだけであって、せっかく作った製品を“お金がない”事を理由に、誰も買ってくれなくなる事を意味するのに、誰も気づいていないから可笑しい訳であり、んでもって、男性のみで社会が本当に回るのであれば、この世の中に生殖における“メス”の存在も不要になることを意味する。まぁ…それはそれで非常にキモいし、その憂さを晴らすのにカチムチの変態と戯れる事を受け入れないとマズい事になるw(ホレ、アニメの“アクエリオンEVOL”で、生まれくる者が全部男性ばっかで、女性がいない世界ってのが、自分たちの世界が滅亡するかもしれないって事で、女性をさらっていくネタがあったが、ああいう状態、何かに似てると思いませんか?)

少子高齢化でもまた然り…子供を大事にせんと、自分の我儘ばっか言ってる中高年や老人どもを見てると、この“結果”も必然の理じゃないか?そう、確かに、自分の“若かりし頃”も、世の老人どもの“理不尽”な政策によって振り回された挙句、大乱闘をやった訳だが、それによって勝ち得た権限を、今でも振りかざすのであれば、その“同じ過ち”を繰り返す事になる。違いがあるのであれば、それは、今の若年層の方が知恵が回るという事…即ち、自分たちを支える屋台骨がいなくなれば、必然的に、その御鉢は“言い出しっぺ”に帰ってくる事を、みんな知ってるから、ワザと子育てをしなくなったとすれば、これほど怖い話はない。なぜなら、自分たちが“育児放棄”をした事によって、誰も“子育て”のノウハウがないから、結局“子供を作らない方がラク”という概念に至り、余計に少子化に歯止めがかからなくなるどころか、自ら“祖国の滅亡”を望む様になる。もっと言えば、今、自分が住んでる国そのものがイヤになり、富裕層や有能な学者は海外へ逃げ、貧困層は自暴自棄で、いつでもテロを起こしかねない状況になる。日本の場合、“迷惑かけたくない”一心で、一家心中か個別での自死を選ぶ訳で、そこには苦しみしかない。自分自身の“責任”でそうなってしまった以上、滅亡は“待ったなし”である。

ここで最初の話に戻せば、ガキの声が煩いとダダこねる成人の方が、どんだけ“稚児こい”よ?そんなに煩いなら、昼間、図書館に籠もれば?あの、異様なまでの静けさが好みなら、そこにいたらいいだけの話。年がら年中騒々しいのが嫌なら、それこそ限界集落といわれる地域に引っ越した方がいい。都会のような利便性はないが、まず、ガキの声はしないし、煩いと思っても、それは自然が発する音であって、文句を言う相手としては人間の様にはいかないw それも嫌なら、耳鼻咽喉科に行って、こう告げればいい…“聴覚を潰す方法はないか?”と。聴覚障害の人たちは、音が“聞こえない”からこそ、上手く言葉を発しないだけで、実際は手話やジェスチャーで会話をする事ができるし、必要に応じて、筆談をする知恵がある。しかし、突発的に(あるいは、加齢によって)聴覚を失った場合、自分が“聞こえない”という自覚がないから、どうしていいのかわからない…けど、ガキの喚く声を無視する事ができるw “都合よく”難聴になれるならともかく、他の人の声すら聞こえなくなれば、どれだけ寂しく、そして、どれだけ危険な事か、すこし想像してほしい…自分の我儘によって生じた“結果”が、どれほど他者を傷つけ、恨みを買ってるか。そこに気付かない様では、何をやっても、誰一人報われない…

 

害獣駆除と自然保護

昨日の記事、最後の一言で誤解を受ける人がいると思うので、その補足を兼ねて…

“害獣駆除”とは、何を基準に語られるべきか?その根幹は、自然界での資源保護…即ち、適正な狩猟と養生が肝であり、安定供給の観点からも、ここを失念して、一方的な保護や駆除は、かえって自然界の食物連射や資源再生の阻害を意味する事になる。言い方を変えれば、過剰な動物愛護や自然保護活動は、却って自然破壊でしかない。

海洋民族にとって、多少の違いはあれど、海獣類(アザラシやクジラ、ラッコなど)は、食糧である以前に、海産物を食い荒らす“害獣”であり、漁場にいたら厄介な存在でしかない。また、甲殻類(特にカニ)は、その爪(ハサミ)で仕掛け網をちぎってしまう“害獣”である。だけど、それを理由に命を奪った挙句“廃棄処分”ではもったいなかったからこそ、肉は食用に、殻や骨は釣具の一部に、毛皮は防寒着や敷布に、油脂はランプやストーブの燃料に、それぞれ活用する事で、無駄なく利用してきた歴史がある。それは、アイヌ民族イヌイットの民族衣装や装飾品などを見れば、すぐに理解できる。彼らの食文化でも、単に狩猟するだけでなく、その後の保全…特に山菜に関して言えば、必要以上の狩りを行わず、採取した山や沢では、翌年は入らない事が暗黙の了解とされた。つまり、欲張って獲ったところで、食べきれずに腐らせたり、天候不順などで収穫量が減った場合などの危機管理ができてない様では、集落を守れないことを意味してた。だから、収穫時期や収穫場所に関して、厳しい管理が行われた上で、できるだけ集落内での不平が無い様、集落総出での狩猟が行われた。これに対してイチャモン付けたのは、集落の外にいた者…即ち、外来の商人たちである。

海洋民族にとって、ある意味“普通”の食材や装飾品は、その内輪にいない者から見れば、奇妙奇天烈なモノであり、また、自分達と“違う世界”であるがゆえに、珍しい“宝物”のようにも見えた訳である。だから彼らは、交渉の際に、相手が本気で欲しがる様な品物との“等価交換”を呼びかけ、それに似合うだけの品々と交易していった訳である。が、物々交換の時ならともかく、貨幣によると取引へ移行していくと、いわゆる勝手な“為替レート”による取引になるため、何も知らない者が取引に応じると、それゆえに不当な価格での取引が行われる様になり、それ故にしばしば、貿易商が生産者と消費者双方から槍玉に上がって叩かれる事になる。この法則、実は今現在でも頻発してる事であり、決して過去の話ではない。それが、宝飾用サンゴやクロマグロ等の密漁や、そこから派生する領海侵犯や、海難事故につながっている訳である。

同じ事は農業や林業でも言えてて、単にイノシシやシカ、クマやオオカミ、サルを狩ってるのではない。草食獣は植物を餌にして生息してる関係上、植林地に入って若木の芽や樹皮を喰われると、当然ながら樹木が育たなくなる。また、雑食なイノシシやサルが、山で食料となるドングリや虫が足りなくなると、必然的に食糧求めて里山を下り、田畑の農作物を喰い荒らす事になる。(オイラの近隣でも、今年、どんだけイノシシが田畑を荒らしたのやら…)牧畜をやってるトコだと、オオカミやキツネの襲撃は、家畜衛生の観点からも好ましくない事であり、また、せっかく肥育した家畜(特に羊や鶏)を喰われる事ほど、腹立たしい話はない。だから、どんなに個体数が減った絶滅危惧種であっても、駆逐する方が好ましくなる。フランス南部で今、イタリアから越境してきたオオカミによる羊が襲撃されて死ぬケースが、畜羊農家の頭を抱える問題になっている。一時、フランスではオオカミが絶滅して、畜羊の数が安定してたのに、ここに来てオオカミの目撃情報が相次ぎ、その原因を突き止めると、そういうことだった事が判明した訳である。しかし、壊滅作戦をやろうと農夫が立ち上がると、それを阻害する存在が現れて、エラい事になっている…そう、件の自然保護団体である。彼らの言い分としては、“自然保護”の観点から、オオカミを増やす事で、他の害獣(特にシカ)の駆除に役立つという事である。しかし、思惑が外れているのに、それを主張し、何も知らない都市部の人々から支持されている事がネックになっていて、殆ど“打つ手ナシ”状態だという。

 

それだけ、人間の人口が増え、自然界のバランスが崩れている以上、どこかでなんらかの弊害が出るのは、ある意味仕方ない部分であり、理不尽でも受け入れなければならない部分である。しかし、様々な“関係性”を知らずに、一方的な感情論のみで批判すれば、そのことが“原因”で、さらに状況が悪化する事になる。自己中心的な考えで開発や保護を言ったトコで、それが本当に“正しい”かどうかなど、わかったモノではない。むしろ、現状維持を訴えるのであれば、それに似合うだけの“代償”を、どこかで払わなければいけない。それを前倒しにするか、後回しにするかで、その“結果”は変わる…さて、本気で人類の“持続可能な繁栄”を維持するには、あと、どれくらいの“犠牲”を払わなければならないのだろうか?

 

密漁(猟)と需要。

中国漁船が小笠原諸島などの太平洋上で、宝飾用サンゴの密漁をやっているというニュースを目にして思うのは、そもそも、日本だけでなく海外からも需要があって、それを低価格で安定供給しようと思えば、こういう“裏”があって当たり前だという事。例えば、冬場の鍋に欠かせないカニ肉…通販で低価格で販売されているものは、ほぼ、なんらかの“裏”があると考えていいと思う。特にタラバガニの場合、漁獲量もさることながら、漁場がロシアとアメリカの北極圏近海であることを踏まえれば、日本の漁船が乗り込んで獲ってる訳じゃないから、学術上“タラバガニ”ではないカニが混じってる可能性がある。もちろん、北海道の根室や釧路、網走等で水揚げされたタラバガニ…実際は同型異種の“アブラガニ”が混じってる訳で、地元では濃厚で食べ応えのあるアブラガニの方が珍重される訳であり、タラバは敬遠されることもあるのだそうな。しかし、本土の人間に、その区別、剥き身になった場合の見た目だけでつくと思う?

では、なんで密漁が後を絶たないのか?さっきも書いたと思うが、全ては“需要”があって、“安定供給”が約束されている事に、顧客自身が何も知らずに了承してる事に問題がある。つまり、水産資源保護を訴えたトコで、価格を釣り上げると、誰も“買わなくなる”という、変な危機感が現場の漁師にあって、その“足元”を見て仲買人や通販バイヤーが煽る訳である。本気で水産資源に関する危機感がある漁業関係者であれば、こんな事をしてたら、将来的に水産資源全般が枯渇する事ぐらい推測が付いている訳だが、貧困層にそれを訴えても、聞く耳持たない…なぜなら、そんな“余裕”がないほど、設備投資や燃料費といったコストが悪すぎるからである。農業でもまた然りで、いくら酒米用の“山田錦”を作ってくれと酒造メーカーが頭下げたトコで、管理に手間がかかる上に“工業用”という理由で買い取り価格が安くなる品種を、わざわざ“無農薬・有機栽培”で育てようと考える農家はいない。

つまり、モノにかかる“適正価値”を、誰も知らないから、こういうことが頻発する訳であって、まして、河川や海は“誰の所有物でもない”という概念がある以上、密漁が減る事はない。ぶっちゃけ、国交相でも“河川の管理”といっても、やってるのは堤防や護岸の整備ぐらいで、水産資源の保全などは“農水省の管轄”ということで無視される。その農水省でも、福島の原発事故での農地の再整備(除染含む)に関しては、国交相経産省に、ある意味丸投げである。となると、現場の人間は、ドコに何を申請すればいいのか“もう訳わかんないよ…”ってなるのは当然であり、したがって、漁協や農協が河川や山林を管理してても、いわゆる“アウトドア好き”に“荒らされる”事になる訳である。遊漁船を運営してる漁師が、漁協や海上保安庁に対して、営業の許諾を得て運営してるとは限らないし、観光農園といっても、農協から支援を受けてやってるとは限らない。当然だけど、所有者不明の山林で、キノコ狩りや山菜採りをする行為も、本来はこれも“密猟”になる訳であって、単に“黙認”されてるだけに過ぎない。

 つまり、全ては“生活のため”という“根元悪”がある以上、どんなに制限をかけたとしても、減らないどころか、さらに悪質になるだけ。もっと言えば、みんなが希少なモノでも“価値ナシ”と無視すれば、必然的に需要が見込めない分、誰もやらなくなる。根元的な事を言えば、伊豆諸島産の宝飾用サンゴは、福島の原発事故の影響が出てるかもしれないのに、それを欲してるバカがいる以上、どんどん密漁される。しかし、さっきも書いたが、福島の原発から漏れた放射性物質が海底にある以上、宝飾用サンゴでも、海流に乗って流れたストロンチウム同位体などの“核の塵”を吸着してる可能性がある訳であり、それを身に付ければ…想像するだけでもおぞましい事です。たとえ福島の原発は関係ないとしても、それならそれで、ビキニ環礁での核実験の影響があるかもしれないのにね。(こういう時こそ、脱原発派は声を荒げて言わないと…太平洋で獲れる海産物は食うなってw)

あんまし言いたかないけど、密漁(猟)を防ぐためには、むしろ、密漁(猟)をやってるモン自身が、なんらかの健康被害や災難に遭わないと減らない。そのための方便として、原発事故や核実験の影響、さらには水質汚濁などを“利用”して、密猟(漁)者に危険を察知させる様に仕向けないといけない。(シーチワワも、ここまで知恵回れば、太地町の漁業関係者を納得させられるんだけどなぁ…w)そして、そんなことをしなくても、生活に必要な収益を生み出せる産業を与えないと、必ず大量の密漁(猟)が行われかねない。単に呼びかけるだけでなく、悪行に陥らない“救済案”を示さなければ、必ず犯罪は繰り返される。だから、やるべきことは一つ…“害獣駆除”の名の下に行われる殺生は、目を瞑れ。