迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

報われないのは誰のせい?

とあるアンケートで、若年層の3割が、今の自分は、どんなに努力を重ねても“報われない”と感じるという答えが返ってきた。ま、無理ないねw なにせ、今の高齢者の殆どが、今の若年層だった時代に、同じ様な事を考え、愚痴って、その挙句、国益や将来を無視して大暴れしたからね。そうやって勝ち得た“自分の利権”を、そうやすやすと自分より若い世代に譲るとでも思うか?そんな事する訳ねぇじゃんw せっかく、長い時間掛かって“勝ち得た”自分たちが“主役となる時代”だから、自分以外の存在なんぞ、奴隷…否、都合のいい“妖精”みたいに感じる訳よ。だから、自分の我儘が通じない事が、一番嫌なのよね。でも…ちょっと考え方を変えれば気づくと思うが、同じ過ちを繰り返さないようにしようと思ったら、まず、自分たちがやってる行為が、いかに“稚児こい”事かに気付かなきゃならんのだわ。要するに、自分の思い通りにならない事に憤懣を覚えたとしても、それを甘んじて受け入れなければならない時もあるってことに気付かないと、それ故の恨みを、自分より若い世代や目上の世代から買っちまう事になる。いつの世でもそうだが、しょうもない理由で衝突が起きると、それが連鎖して世界規模の大騒動になる。本当に、最初は単に自分と他人の小競り合いなのに…

根本的な話、本当の“幸福”とは、自分自身の心に充足感を感じるか否かである。どんなに大金が手元にあったとしても、どんなに身体能力が他人よりも優れていたそしても、 自分自身の心…精神状態が“虚しい”と感じている以上、何の意味もなさない。どんなに他人が羨む様な地位であっても、どんなに人徳に恵まれていても、自分の心が孤立してると、すべて無駄になる。その逆を言えば、金欠でホームレスでも、自分の居場所がある限り、その状況でも満足するし、他人から“変態”と罵られていても、かまってくれる人がいる間は、決して孤独ではない。さらに、なんの取り柄もない人であっても、楽しみにしてる事へ参加する事が生き甲斐になってる人は、それだけで充分な才能を養うことができる…自分の心に素直になれる人は、他人から見て、どう頑張っても波乱万丈にしか見えない人生でも、その中で懸命に“生きる”事で幸福を勝ち得ているから笑えるのであり、そして、おおらかになれる。平凡で退屈な事が“幸福”とは限らないし、人それぞれの生涯であるから、様々なケースがあって当然。それを認めるかどうかは、自分次第なトコと、相手次第なトコと、常に二面性がある。

“報われない”と感じる最大の理由は、自分があれこれ“良かれ”と思ってやった事が、なぜか“否定”されていると感じるからである。でも、それはとんでもない勘違い…努兄曰く“最後は“情”だけが残る”…即ち、どんな施しも、それが“当たり前”になると、感謝の気持ちすら薄れるからである。ぶっちゃけ、毎回毎回“ありがとう”と言い続けることが、“マンドクエ&照れ臭い”になる訳である。言う方はともかく、受け手側が自分にとって“当たり前”な事に対して、感謝を述べられると、すごく恥ずかしく感じるからである。さらに、同じ事が繰り返されると、ある種、機械的な流れになる。こうなると、感謝を述べることを省略しがちになり、ある時、その“当たり前”が途絶えると、急に不安になったり、今までの事を棚に上げて、ついつい相手に攻撃的な態度を取ってしまう訳である。その“当たり前”を取り戻そうとして…ここが問題。当たり前な事が、実は“特別な事”だと気づかないうちは、この“勘違い”を治す事はできない。それどころか、余計に事を拗らせる事になりかねない。しかし、様々な変化に対応できる人は、故に寛容になれる。仏教が説く“諸行無常”とは、単に儚い事を指してるのではなく、一瞬一瞬、変化に富んでいる事を自覚させるための方便。何をやっても“報われない”と感じるのは、今という時間も所詮は“過去”と“未来”を結ぶ一端でしかない…それがわからないから、眼前の“結果”のみに捉われ、未来への展望を捨ててしまう事になる。今の国会審議でもそうだが、眼前の選挙の結果や大臣ポスト等を気にし過ぎて、本来やらねばならぬ課題をやろうとしない時点で、誰が選挙に行って、まともに一票を投じると思うか?コレと全く同じ。自分たち自身がやるべき事が、キチンと自分で理解できず、そして目の前の結果に捉われ過ぎて自分を見失えば、当然だけど、過去の因習が基で起きた出来事に対応もできなくなる。

常に“自分”を見失わない人は、どんなに報われない事をやり続けてたとしても、それがどこでどうなるか、ある程度の予測がつく。その予測が、全く見当違いであっても、最終的には“バッドエンド”になることはない。どんなに他人が“幸福”そうに見えても、その“裏側”を知れば、それが本当に“自分が目指す幸福”なのか、すぐに気付く事ができる。どんなに才能がなく、バカにされ続けても、それが本当に評価されるのは、自分が最後まで集中してやり続ける事ができた時である。俗に“継続は力なり”という言葉があるが、バカげた事でも、持続して集中できること、そして、どんな意見でも、その取捨選択を誤らない限り、やがて世間の方から自分という“存在”の大きさに気付いて、本当の意味で“報われる”時が来る。そのタイミングが、他人より早いか遅いかだけであり、誰でも等しく、その“因果応報”の理を受ける事ができる。それでも、自分が納得できずにウダウダ言ってるから、自分勝手に閉塞感に苛まれるのである。その結果、本質的な救済の手を払いのけるわ、自分の意に沿わないものを排除しようとするわ、自分の価値観以外を認めないから他人の評価を批判するわ…とにかく“破壊衝動”に“負ける”わけである。こうなると、誰も報われないから、次第に魂と身体、そして様々な繋がりがバラバラになって、最後は自分が抱え持つ闇に飲み込まれ、満たされないまま朽ちていく事になる。その“自分勝手な閉塞感”を打ち破るのに、どれだけの勇気、度胸が必要か?

抱え込んだ“モヤモヤ”は、よっぽどでない限り、他者がどうにかできるモノではない。だけど、自分自身が自分を見失わない限りは、必ずそれは取り払う事ができる。もしも、自分という“存在”を見失った時は、過去の自分に問い質せばいい…どうにもならない時に、誰がそこにいたか、それを思い出した時、もう一度、自分を取り戻せる“きっかけ”が生まれる。例えそこに戻れなくても、同じ場所で“待っている”人達がいる…手を差し伸べるのか、傷つけるかは自分次第なら、その選択肢を間違えるな。たとえそれが原因で禍根を残したとしても、それは後で必ず帳消しになる。全てが丸く収まる理がある限り、どんな事でも無駄にはならない。どっかで役に立つ以上は、無駄なものなど何一つないのだから。

 

実況アナ達の“苦手意識”

競馬実況をやる上で、馬名の言い間違いは、競馬ファンから叩かれる要因のひとつ…とはいえ、認識間違いやきわどいレースでの見極めで失敗した等、レースの結果と直結してるからこその批判であって、そもそも、馬名がヘンチクリンだと、それ故に批判するクレーマーそのものもバカだとしか言い様がないw(実際にいるんですよ、競馬実況アナが戸惑う事を前提に、馬名で遊ぶ馬主が!!)しかし、それを“理由”に泣き言いってたら仕事にならないのが、競馬実況アナ達の宿命であり、本文である。とはいえ、日本語を正しく喋れてナンボなのは、日本のアナウンサーとして最低限度の“技能”なのに、それ故の苦労が…
昔の実況アナ達にとって、いわゆる“カタカナ”が苦手…ってのがある。要するに、外来語をカタカナで表記してても、その通りに“読めない”って人が多かった。難読な馬名を挙げろと言われて、ベテラン勢が真っ先に思いつくのが、シンボリルドルフ。カタカナ表記では確かに“カッコ良い”馬名だが、いざコレを噛まずに読んでみろと言われ、スムーズな発音ができたとしても、ある程度ゆっくりと話す分には良いですが、競馬実況でコレを連呼してみろとなると、大概の人が噛む事になる…わかってても、ラ行とダ行の発音切り替えが非常に難しいからこそ、大概の実況で“噛む”事になる。(マシンガン実況を肝とする蜂谷アナでも、手こずってましたからねぇ…うまく発音できないって。)更に苦労するのが“ヴ”が付く馬名。これは、英数表記でやればよくわかるが、要するに“V”が付く言葉は、日本人が最も苦手とする…というより、そもそもの日本語には存在しない発音形態であるが故に、実際の発音がおかしくなる訳で、ビリーヴとかエアグルーヴの様に、最後に“V”の発音が来る場合は誤摩化せても、レッドリヴェールとかヴィクワールピサ等の様に、途中や最初に“V”発音が来ると、なぜかバ行発音(B発音)になる事がある。(ウォッカは別だが…)これ自体はある意味、日本語であるが故の弊害としか言い様がないが…
ここから先は、以前、方言に関するネタとしてやった部分の補足になるが、馬名によっては、馬主の“出身”が反映される言葉が使われるケースが多々あり、それ故にパニックになる事がある。そう、いわゆる“方言馬名”ってヤツだ。テイエムボッケモン(テイエムは冠名だが、“ボッケモン”は鹿児島弁で“大胆な人”とか“乱暴者”という意味)とか、ナンデヤネン(ご存知“オダギラー”馬名w 関西弁のツッコミ言葉“なんでだよ”)は、その方言の意味が通じる出身者ならともかく、様々な地方からアナウンサーとしてやってきた者にとっては、時と場合によっては“難読言葉”になるw ぶっちゃけ、関西方言を東北人や関東人がやると違和感がある(その逆もまた然り…)様に、発音ひとつで“大爆笑”となる実況にもなりかねない訳で、単に“珍名”だからと言って、ヘタレな実況になるとは限らない。寧ろ、方言が入った馬名の方が、実はアナウンサー達にとっては“最大の敵”だったりする。言い方を変えると、東北出身の小塚アナや佐藤アナが無理矢理関西弁で喋るのと、関西出身の檜川アナや直也アナが普通に関西弁で喋るのとでは、聞こえ方や雰囲気が全然違う。コレがモロに実況に出た途端、同じ馬名を連呼してても、違和感が出る訳である。(但しコバマサの場合、ナンデヤネンに関してはある意味完璧w)
つまり、せっかく“カッコいい馬名”を付けて、登録も通ったのは良いが、実況するアナ達にとっては、毎年の新馬(デビュー)戦程、戦々恐々な状態であり、故に、毎度ながら馬主に“ヘンチクリン馬名はやめてくれ”と願う訳であるが、毎年の如く願いは裏切られ、そしてレースの準備中に頭を抱えながら本番に臨む訳なんです…いやはや、ご苦労様です。

宗教と学校法人の話。

とある宗教団体が、来年開校予定で作っていた大学が、文科省から“ダメよ〜ダメダメw”という判断が下された。(ま、詳しい事はコレを一読してw)で、一部のSNSでは、全くもって“お約束”通り、創価学園(今回は大学)に対する流れ弾がわんさかw けど、創価学会憎しで創価の学舎を叩く人の多くは、そもそも、大学という概念は、キリスト教の教学研究所を指すモノであって、現在の“大学”に至るまでには、結構紆余曲折があった事を知らない人が多い。ぶっちゃけ、本来の意味での“大学”は、聖職者が自分トコの宗教学を深く研鑽し、それを広く一般に布教させるための場であって、また、他宗派との論争の場でもあった。だから、若き指導者を鍛え上げる学問の場が、大学の本分である。

閑話休題、ではなぜ、宗教団体の多くは、学校法人を運営してるのか?そのヒントは、宗教法人法に基づいて、信徒や周辺住民に対する生活支援を施す事を条件に、納税が免除されている事にある。日本の場合、私学の多くは、本来であれば国や自治体が作るべきトコを、学者や宗教家が私財を投じて開設した“歴史”がある。事実、“関関同立”はすべて、キリスト教が母体にある学校法人である。さらに、龍谷大や相愛大は仏教系、天理大は言わずもがな(天理教)…である。即ち、創価大学を目の敵のように罵る者は、これら宗教団体が保有する学校法人に対しても、同じ文句を言えるのか…って事になる。Twitterの方でも書いたが、いくら宗教団体運営の学校法人だからと言っても、やってることは、他の私学や公立の学校と全く一緒。経済学部なら経済全般の事を、法学部であれば法律の基礎知識から国際法に基づいた判例の研究等を、医学部であれば触診から人体解剖(!!)まで、様々なカリキュラムが組まれていて、そこにはあくまで、宗教的な概念を持ち込まない事が必須条件となる。宗教学をやる場合でも、あくまで個別の信仰を阻害する様な授業はやらないのが本筋である。但し、生業としての聖職(神主や僧侶等)を目指す場合は別。事実、國學院大学には神主資格を取るための授業が存在し、実際に神職として各地の社殿に赴く人もいる。オイラの知ってる範囲で言えば、昔、某放送局のアナウンサーでその資格を持ってる人がいて、実際に担当番組内で、リスナーを対象にした神事を執り行った事がある。これはある意味特異な例だが、あくまでこれは、本人が希望して取った資格である。したがって、宗教団体が学校法人で、他宗派の信徒であるかもしれない学生や生徒に対して、改宗や宗教理念の押し付けをやってはいけない反面、自宗派の信徒に対しての受け入れ態勢として、校内の一部に礼拝堂や懺悔室などの設備がある訳である。

そもそも、布教活動時に、信徒や宣教師は互いに、自宗派の宗教哲学と活動方針を示し合わせ、確認作業を日常でやっている訳だから、わざわざ学校法人としての学舎で学ぶ事は省略できる部分であり、実際、学会員がやってる各種の教学試験や研鑽も、学校という公の場ではやらないw(他宗派の生徒・学生もいるからね…)だからこそ、学校法人として認められ、大阪や東京等に学校や幼稚園を開設することができる訳である。そんな事も知らずに宗教系学校法人を罵るのであれば、それはとんでもない誤認でしかない。(ぶっちゃけ、私学の幼稚園なんて、宗教団体の施設に併設なのは、日常茶飯事やでw)日本の学校は基本、集落内の社殿仏閣の一部で開設してた“寺子屋”が元祖と言っていいほどで、それまでは、一部の階級以外は読み書きすらできなかった。そんな時代からの話を持ち出してまでも、宗教団体と学校法人の関係を説明せんにゃならんほど、最近の人たちは宗教に疎くなったような気がするのは、オイラだけだろうか?

 

競馬と鉄道の話:関西の運行ダイヤ編

鉄道の運行ダイヤは、多くは数年に一度、大改正を行う訳だが、その理由として、新型車両の導入や沿線開発が順調に推移してる事を踏まえ、利用客拡充を視野に入れた変更を行う訳だが、大概の場合、それが上手くいかない事の方が多いw(そりゃ、モータリゼーションを国是としてやった弊害でんがなw)しかし、公営ギャンブルを沿線地域に抱え持つ鉄道会社の場合、大幅なダイヤ改正を行うのと同時方向に、競技の開催日程による臨時ダイヤ編成をどう組むかで、スジ屋(ダイヤ編成を作成する専門職)が毎度、頭を抱える訳である。そこで、どうやってその運行ダイヤを円滑に実行できるのか、少しオイラなりに纏めてみようと思う。
もっとも、オイラがわかる範囲で説明できるのは、京阪と阪急だが、基本的に違うのは、定時ダイヤでどうにかするのか、臨時運行が組める状況なのかの差である。京阪の場合、普段は各駅と準急しか止まらない淀駅に、急行の臨時停車を行う様にしている。つまり、できるだけ通常のダイヤを弄らずに、且つ、競馬ファンと京都観光に訪れた人達を纏めてスムーズに輸送する為にやってるといって良い。もちろん、淀を始発とする臨時列車を運行する事もやってるが、あくまで大阪方面からの競馬ファン向けであって、京都方面では行っていない。同じ理屈は、阪急でもあって、だが、少し様子が違うトコがある…
阪急の場合、梅田から来る競馬ファン向けのサービスとして、昔、最寄駅の仁川までの直通急行を運行してた事がある。現在でも、メイン終了に合わせて梅田行きの臨時直通急行を運行をしているが、実はコレがかなりクセモノで、停車駅を先に公表すると、十三(じゅうそう)、塚口、仁川…そう、西宮北口に“停車”しないのであるw 正確には、今津(北)線への乗入れ・離脱の関係で、西宮北口で“信号待ち”をする訳だが、そこでは乗客の取り扱いを一切行われない。つまり、駅構内の入れ替え線を利用する関係で、実質は“通過”扱いになるのだ。されど基本は、西宮北口優等列車停車駅だから、そこで今津線(北線)に乗り換える事が前提であり、また、宝塚線経由で向かう“バイパス”も存在するから、通常の休日ダイヤでなんとか対応しきれる訳なんだが…最近ではちょっとイレギュラーな事が起きている。そう、お気付きかと思うが、阪神近鉄と相互乗り入れをやる様になった関係で、今津線(南線)の利用者も増えてきてる訳である。要するに、奈良以東や南海沿線の競馬ファンが、こっちから阪神競馬場へ向かうケースが増えてる訳である。そこに目をつけ、休日ダイヤでは近鉄と共同運行している快速急行を、今津駅に臨時停車する措置をしたのが阪神なのであるw

脱線ついでに、いわゆる阪神の“逝っとけダイヤ”について解説すると、甲子園球場でのイベント開催時の混雑状況、および試合進行に合わせて、甲子園駅の駅長が全責任を負って、スジを引き直して運行してる訳である。つまり、ダメ猫…もとい、タイガースのホーム戦で延長に継ぐ延長でグダグダになっても、そこを見越して駅長の指示で阪神本線のダイヤそのものが書き換えられるため、梅田や三宮までなら対応できるが、相互乗入れ先の山陽と近鉄は堪ったモノじゃないのは、ある意味日常茶飯事w とはいえ、近鉄も他人に言えた義理ではないのは、沿線住民ならご存知の通り。(いわゆる“天理臨”の運行がある関係)

無用・無駄は自分次第。


この究極の“答え”は、アジアの民族性に根付くの“中華思想共産主義”である。ほれ、日本人でも、いわゆるレイシスト思想に賛同する人に共通する感覚に、“日本人”という“単一民族”という概念…これと全く同じ。在日外国人やアイヌ琉球人に対する差別も、この“単一民族”という概念こそが、諸悪の根源と言っていい。日本人も御多分に洩れず、イギリス人同様の“民族潔癖性”なトコがあり、それ故に、異国民や異種民族に対する嫌悪感が強い。もちろん、その感覚に関して若干の地域差はあるものの、総じて言えば、自分“以外”のすべての存在が“異質”に感じ、その違和感や気持ち悪さが嫌で仕方ないから、一方的な感情をむき出しにしたり、あるいは、存在そのものを否定したがる訳である。しかし…それって要は、自分の“個性”を見出すための鏡を壊したいだけの話じゃね?

宗教的な話をすれば、オイラの様な学会員は、新入会の時点で、基本的な仏教哲学を学ぶ。その一つに、自分達が掲げる本尊は、自分自身の精神状態を映し出す“鏡”だと教え込まれる…こう説明すると、かなりカルトっぽい話になるが、信仰上の“おつとめ”(学会流に言えば“勤行・唱題”)を行う上で、何に向かって行うか、その“具現化・具体化”したのが、各宗派の御本尊であり、その形式は、宗派や寺院によって様々。(大概の日蓮宗系の場合、文字曼荼羅というヤツがそれ…想像しにくいかと思うが、要するに多宝塔内部の様子を、現代風に言えばAAで表現したヤツですw)

これを奉ったからといって、すぐさま功徳や加護を受けられるという“都合のいい”モノではなく、本来はその御本尊と向き合い、手を合わせながら唱題・声明(しょうみょう)を何度となく繰り返し、精神を集中させる事で、自分自身を客観的に見る時間を作り、今までの行動を振り返り、“嫌な自分”と向き合い、打破していこうと腹をくくるための“修行”をやる事が、御本尊の“本文”といっていい。言い方を変えれば、自分が信じられる確固たる“精神の柱”を持つためのきっかけであって、何度御本尊に“助けてムームーw”とか、“呪われてしまえ”とかほざいたトコで、何の意味もないって事だ。(オカルトな意味ではともかくw)

民族や生物学上における種族の多様性は、その生物や民族が生活基盤としてる地域の環境で、そこに適応できるようにカスタマイズされた事によって出る差であって、種の保存的な事を言えば、様々な事態に備えた存続・繁栄を保持するための“選択肢”として、時折“個体種”の様なレアな存在が出てくる訳である。ぶっちゃけ、多種多様な生物や民族がいる事は、いろんな意味で“マンドクセ”な状態だから、みんな均一・同一規格にしようと、人類は考えがちである。(様々な差別を無くそうとすれば、必然的に、この考えに至るw)しかし、その考えこそが一番の“間違い”であり、多種多様な選択肢を持ってるからこその“答え”がある。ミジンコでも、平素の時はメスだけしかいなくて、しかも単体分裂だけで増やすことができる。が、乾季で水不足や水中の酸素不足が深刻になると、オスの個体が生まれ、交尾して次世代の卵を残し、次の雨季まで耐えられる状態にしてる。仮に、水のphが極度に酸性、あるいはアルカリ性に傾きすぎたとしても、種の保存の観点で、それに対応したDNAを保有する種が生き残れる様になっている…これも、種の存続に対する“可能性”であり、万一、単一の種族しかいなかった場合、ゆえに“全滅”という最悪のケースに陥る事になる。

自分から見て、無用の長物や無駄なシステムを見てバカにする事もあるだろうが、他者から見て、それを必要とする人、活用できるモノであれば、それは決して“無用・無駄”とは言えない。それを、いとも簡単に切り捨てられる人は、自分にとって“邪魔”だからそうしてるだけであって、それを他人に強要した途端、却って煙たがられる事になる。なぜなら、本当に“必要”な事は、個々の事情によって変わるのであって、それを一方的に排除すれば、同じ様に自分自身も誰かから“排除”されることになりかねない。ここの概念がすっぽ抜けた状態で、先ほど紹介したツイートの内容を実践すれば、当然ながら、どんなに努力しても、誰からも褒められないし報われなくなる。在特会の連中にしても、自分自身が“感謝”という気持ちや、他者から様々なカタチで支えられている事を自覚してない様では、自分たちの“言い分”が通じなくて当然な訳である。同じ様に、国家の屋台骨を守れない様な議会運営をやっている国会議員や政治団体が、たとえ政権を奪取できても、本来の目的を忘れて暴れた結果、多くの国民から見捨てられるのは、当然の結果。メディアもまた然り…真面目に、様々な状況に備えることを“無駄”というのであれば、何もせずに放っておけばいい。当然だが、自分が動けなくなろうが、排除されようが関係ない…少しでも誰かに、何かに縋って助けを求めたら、その時点で“負け”だ。もちろん、宗教や家族にも…なんの支えもなく、どんな努力もせず、それを自慢してる時点で、単に“かまってちゃん”確定であるw だからオイラは思う…完全なる孤立無援とは、自給自足自産自消を、完璧にできる者だけが成し得る事ができる、完全な引き籠り人生を満喫してる状態だと。でも、それができるって事は、人間でなくても良い訳であって、そんな“完璧な存在”は、机上の空論でしかない。どんなに科学が進もうと…

政治家不信の最大要因は、自分たちの“態度”じゃね?

なんかマスメディアは、政治に関して、何か勘違いしてないか?正直、政務調査費や活動費なんど、何に使おうが勝手だろ?それによって、国民の生活が向上したり、国際的な喫緊の事態に備えられるのであれば。なのに、有権者との交流に使ったことを、いちいち文句付けてる野党の連中は、何考えてるんだ?そんな事だから、政権奪取しても何もできずに国政が悪化するんじゃねぇのか?

そもそも、今の政治家は、政権与党じゃなきゃ何もできないと思う人が多すぎて、その上、まっとうな仕事をしてるような人間を見たことがないと有権者が感じてるから、様々な選挙においての投票率が下がってる様に思える。それにプラスして、マスメディアが、本気で仕事やってる人間に対し光を全然当ててない…これで“選挙行ってねw”なんて言われても、誰が行く訳?まして、政党の支持母体を見て“キチガイ”だとか“カルト”だとか、言ってる場合か?エボラ出血熱に関する事やイスラム国のようなテロ組織の事とか、真面目に、海外にいる邦人を守る術や救済する方法を考えるのが先であって、単なる“イス取りゲーム”をやってるようでは、そういった事に精通した人々が海外に拠点を置いてしまうのは当然ではないか。本気で日本をどうにかしたいのであれば、時として苦渋の選択をせねばならない事だってあるハズ…そう、北朝鮮拉致問題も、遅々として進まない背景を察すれば、これほどバカバカしい話はない。本当に救う気があるなら、とっくの昔に憲法解釈捻じ曲げて、自衛隊を送り込んでドンパチやってるだろうし、アメリカやロシア、中国だって日本の事情を知った上で黙認できることだったと思うね。でも、そうじゃない…なら、やるべき事って、他にあるだろ?

政府のgdgd振りを知ってるからこそ、中国や韓国は日本を見下し、そして国民に対して自分達に矛先が向かない様、反日感情を利用し続けた訳であり、そこの部分を理解した上で、自分たちが国民に対し、本気で襟を正して政治をやってもらわないと、そのことが原因で、民主主義と平和憲法の国としての日本が終わってしまう。何度も言う…自分自身がエエ加減だから、自分の“大切なもの”を守ることもできずに滅びるんだ。世界中で話題にならない国ってのは、それだけ、民と為政者の信頼関係がしっかりしてて、なおかつ、政策上の“当たり前”な事をみんなが知った上で、粛々とこなせるからこそ目立たないだけである。問題を抱える国々は、総じて“他人の芝生”を見過ぎてるだけ。どうして自分達の“理想”が叶わないのかは、自分自身を見つめ直せばわかる事…できる人とできない人、その持ち味を生かせる社会なのか、それとも均一・単一化したスマートな社会か、立場や地域性などを加味すれば、どれが“一番いい”のかなんてのは、その瞬間にならないとわからない。だから、多様な“生き残り戦略”が存在して、それが合致したトコだけが、その成功例を“常識”としてるだけの話。だから、少数派で“常識”から逸脱するものが出るのは当たり前であって、だからと言って、それを“変態”と切り捨てるような考えが蔓延すると、ゆえに“逃げ道”が塞がれて、どうする事もできない最悪な状況に陥る訳である。それをヨシとするかどうはにしても、個々の見解があるから一概ではない。だからこそ迷い、狂うのである。

結果論から言って、どうでもいい事を嬉々としてリークし、国政の足を引っ張る政治家こそ、邪魔以外の何者でもない。アベノミクス、失敗でもいいじゃないっすかw だって、政治家自身が民を見ずに政治を行った“結果”ですから。本気で民衆の声を聞き、それを反映させるために身銭を切れる政治家であれば、その分を政務費として請求したって、誰が文句言えるのだ?まして、有権者への接待を禁じてること自体、“民の声を聞く”という“仕事”を制約してるようなモノであり、また、本当に必要経費を全て記載する必要性があるなら、疚しいことやってる政治家なんて、ほぼ全員該当すんじゃね?だったら、富裕層が無差別にカネをバラ撒く方が健全だと思うね。見返りを求めるのって、ある意味当然の“権利”だしねw

だからこそ、今一度、政治家やマスメディアは自分自身を見据え、態度を改めるべきだね。でないと、庶民感情と政治に対する関心度が乖離してしまうから。香港のデモでも、あれ、失敗すると思うよ。本気で民主化を求めるなら、貧困層に対して、生活向上をするためには、中国共産党からの独立も視野に入れた考えを訴え、なおかつ実践して、正当性を実証しないと、貧困層で、労働階級の人々から共産主義指導部とサンドイッチされる事になるよ。貧困労働層は、同い年の富裕層の学生を“お花畑”と称してバカにしてるからねw 彼らとともに戦いたいなら、仕事の邪魔はしない事と、本気で粘り強く交渉し続ける事…単に“実力行使”という名の下での道路封鎖や官庁街占拠は、却って他の市民からの心象を悪くする。かつて、日本の学生運動…しかもつまらない理由(受講費の値上げ)で起きたアレも、国鉄の“スト権スト”も、結局、利用者や住民からの苦情の因になり、さらには、学生は就職時に不利な条件を企業から突きつけられ、国鉄国労にいた職員を、ある意味解雇するようなカタチで分割民営化した。この事例を“対岸の火事”で嗤ってる以上は、必ず同じ轍を踏む。因果応報とは“究極の理”である以上、必ず何らかの影響が出るのが当たり前。それを他人の所為にする限り、何人たりとも、真の意味での幸福にはなれない…誰かの“犠牲”の下で、今日の“平和”が成り立っているのであれば、それを無駄にしてはならない。それを無駄にしてバカにしてる以上、誰一人として報われないし、不幸なままである。

奴隷を欲する者の過ち…

基本的な話、古代の“奴隷”と“貴族”の関係は、ある意味対等な立場で交渉が行われてきた…なぜなら、奴隷の“管理”は貴族の“義務”であり、それを怠って無茶苦茶な事をすれば、同じ“貴族”によって批判される事を意味するからである。つまり、賃金や健康管理を怠る様な輩が“貴族”を名乗る事は、許されない事だったからである。ひっくり返った言い方をすれば、“奴隷”に対して必要に応じた施しを行ってこそ“貴族”として認められるのであって、どこぞかのブラック企業並みのサー残や残業代未払いなどといった酷いことを平気でやるような者が“貴族”であってはいけない。つまり、奴隷が自分たちの生活のために犠牲になっている事を分かった上で、それに似合った収益分配や健康管理を約束できない者は、“貴族”を名乗る資格がないことを意味する。だから、貴族を名乗る者は、たとえ自分自身が貧困であったとしても、その配下にいる奴隷に対して、生活向上を図る上でのインフラ整備や田畑の改善などに精を出し、奴隷もまた、自分たちの管理者である貴族に対して、分相応の労働力を差し出す事で、互いを支えあってきた。それが、本来あるべき主従の信頼関係であって、物語などで描かれている、傲慢貴族と憤懣奴隷の衝突は、ごく少数派の話である。

ここからが本題。では、なんで“奴隷”を欲するものが多いのか?その最たる理由は“自由”であるからだ。ぶっちゃけ、誰からかに支配されたり、自分の思い通りの世界にならない事が憤懣の“理由”であり、ゆえに、他人の幸福や尊厳が鬱陶しく感じるからである。そして、自分自身がもっと裕福で、遊楽三昧できる立場にいたいと思うから、どうしても他人を見下そうとする訳である。しかし…さっきも述べた通り、奴隷に対して分相応の“対価”を払えない者が“貴族”であってはならないのと同様に、自由を欲する以上は、自分自身になんらかの“制約”を課す事が必須となる。つまり、自分が負担できるだけの対価があってこそ、それに似合うだけの権利や利益を得られる訳であり、そこを無視して無茶振りをすれば、必ずトラブルの原因となる。

ここんトコの国際情勢において、いわゆる“イスラム国”とか“ボコ ハラム”などといった連中が女性に対して“奴隷になれw”とほざく理由は、簡単な事…要は“モテないクン”の集団だからである。ああいうトコに集まる男性の殆どが、女性の社会進出によって“いらない子”扱いされる事に憤懣があり、自分の地位向上と、自分をバカにした連中に対する逆恨みで暴力を振るってるだけである。逆を言えば、自分を敬ってほしい、自分を必要とされる場面が欲しいから、自分よりも“劣ってる”相手を見下し、その見下した数を自慢してるだけである。だから、ノーベル賞を獲得した17歳の少女を恨むのであり、そして殺害したいのである。正直に言えば、これこそ“本末転倒”な話はない。

何度も言うが、自分の周囲に対し、迷惑をかけた分だけ報いを受けるのは当然のこと。善根であれ、悪事であれ、それに似合うだけの“対価”が、自分に降りかかるだけの事であって、他人のせいにできるほど簡単なモノではない。因果応報ってのは、自分自身の行いそのものがきっかけで成り立つモノであり、それに対して周囲が何を“対価”にしたかで答えが変わる。だから自分が、自分よりも立場が弱い相手をボロカスに罵れば、ゆえに自分が相手と同じ立場、あるいは自分よりも上の立場の者にブルボッコされても、当然の報いとなる。逆に、相手を慈しみ、敬う立場で接していれば、ゆえに相手からも、そして目上の者であっても、同じように尊敬されることになる。

いわゆる風俗系の話をすれば、相手を縛ったり殴ったりと、どんなに酷い事をやったとしても、当事者同士が好んでやってる以上は、それは互いに“対等”な状態であって、どっちか一方が拒絶すれば、単なるDVになる…当然だが、見ず知らずの相手を無理やり襲ってやったら、それこそ“犯罪”である。つまり、18禁風俗動画で酷いシーンがあっても、それは物語上の演出あって、出演者同意の下での行為である。(もちろん、一部の動画では、そうじゃないのもあるのだが…)ここを勘違いして、無茶苦茶な事をする者は、ゆえに嫌われる訳である。どんな王様(女王様)であっても、それに付き従う相手がいなけりゃ、単なる変態であり、愚か者でしかない。いわゆる“メスブタ(キモブタ)”呼ばわりされる人も、そうやって嗾ける者がいなければ、そこらの凡人でしかない。いじめをする者は、要するに、自分が親や近隣の人々から“監視されている”事が苦痛だからこそ、自分より“弱い”相手をいじめる訳であって、そこには、自分が周囲から“守られている”自覚が欠如してる弱虫である。いじめを受ける者は、それに耐えられるだけの、そして受け皿となる拠り所を持っている強みがある。いじめで自殺…の殆どは、その“受け皿”が不在で、あるいは、自分の親に対して素直になれない弱さゆえに、自らの命を絶つのである。親に対する信頼関係がないからこそであり、また、親が子をあまりにもほったからしにするから、自分の“存在価値”を見失うのである。

だから、ああいうトコに行きたがる連中の殆どは、自分を見失ってるからこそ、それを何とかして取り戻そう、築き上げようともがいてるだけである。それだけ、成熟した“平和”に対して退屈で仕方ないのである。だから、世界に対して武力衝突を求めるバカが出る訳であり、それをほっとけないから、彼らの“要求”…つまり、戦争が起きる訳である。そういう意味では、日本国憲法第9条の“戦争放棄”は、究極の“バカを無視する手段”といっていいだろう。但し、だからと言って無抵抗なままいじめられ続ける立場でいるのは、変態を通り越えて愚かでしかない。国防の要は、兵力の増強だけでなく、あらゆる有事に備えて、行動を起こせるだけの技能や知識を習得し、活用することである。そこを忘れて“憲法を守れ”と叫ぶのは、お門違いも甚だしい話である。だから、“奴隷”といっても見方を変えれば“貴族”と対等な立場であり、同じ人間として尊厳を分かち合えるのであれば、何の問題もない。むしろ、自分達を陰で支える人達をバカにする様な輩こそ、一番の“恩知らず”であり、無責任、且つ“嫌われ者”である。